裸の学生
期末テストが近づき、クラスの学生を3か月も持っていると、良くも悪くも気心が通じてきます。良いほうはどなたでも想像できると思いますが、気心が通じると具合が悪いのはどんな場合か見当がつきますか。
それは、学生の言いたいことが必要以上にわかってしまうことです。コミュニケーションという面だけとらえれば、相手の気持ちがわかることは、文字通り良いことです。しかし、教師の物分りがよすぎると、「自分の日本語ってけっこう通じるんだ」と、妙な自信を持ってしまう学生も出てきます。そう信じて学校外で日本語を披露してしまうと、誰にもわかってもらえなくて、強烈なショックを受けることもあります。
言ってみれば、教師は学生を裸の王様にしてはいけないのです。「王様は裸だ」と言い放つのも、教師の重要な役割です。学生の発話をスマホで録音し、それを本人に聞かせて、自身の発音のひどさを実感させることだってできます。実際は理解できていても、あえてわからないと突っぱねることが、教育的配慮となることもあります。甘やかしてばかりでは、育ちません。「平日、わたしはあまり笑わないので、知らない人はわたしに『冷たい人』と思われているかもしれません」なんていう文を理解してはいけません(ちなみに、ここでの「平日」はウィークデーではありません)。「何が言いたいのかさっぱりわからない」と冷たく赤線を引っ張ることこそ、教育なのです。
そうはいっても、教師は慈悲深いですから学生の拙い日本語を理解しようとし、なまじ察する力が強いですから本当に理解できてしまい、理解できた感動を学生と分かち合ってしまうものです。教師以外に頼れる人がいない学生にとっては、これは何よりもうれしい経験でしょう。しかし、教師がそういう感動に浸ってばかりだと、学生を伸ばせません。学習者を成長させられなかったら、教師失格です。
あなたは、冷たくボケ役に徹することができますか。