オーストラリア |
---|
藤由紀子さん 1983年生まれ
|
オーストラリア |
---|
青島里恵さん 1979年生まれ●プロフィール ●参加の動機・目的 ◇日本語教師関連の資格 大学の副専攻履修及び、420時間養成講座
▼学校のプロフィール 学校の地域 オーストラリア QLD州 Yeppoon(ブリスベーンより北に約680キロ)
▼私の体験談 「たくさんの人との出会いが、私を一回り成長させてくれました」かつて、大学で日本語教授法を学び、教育実習なども行い日本語を教える難しさを肌で体験しました。大学卒業後、日本語教師の道のりも考えましたが、日本では日本語教師の枠が狭いと言う事で、大学の教授の勧めもあり、企業でシステムエンジニアとして働く事となりました。しかし、「大学で勉強した事を生かし日本語を教えてみたい!」という気持ちが強く、3年勤めたあと、会社を退職しオーストラリアへ出発しました。 私は、YEPPOONという町で日本語教師を体験しました。自分が派遣されることにならなければ、場所も名前すらも知ることがなかったような小さな町、海辺の町でした。そこでの生活は、平日は学校に行き授業をし、週末はボートで島にいったり、シュノーケル、サーフィン、スケートボード、乗馬、魚釣り、カヌー・・・。 毎日が新しいことの連続で、新鮮で楽しくあっという間でした。10件以上の家にホームステイをさせてもらい、小さな町には、わたしのファミリーばかりになりました。そこで生活して私が学んだことは、「YES、NO」をはっきり伝えることと、いい意味で周りを気にしすぎないという事でした。人と同じが良しとされがちな日本で育った私は、おおらかでそれでいて自分をしっかりと持っているオージーはとても魅力的でした。 また、心に残った事として、人との出会いと別れです。小さな町だけど多くの人と出会えた分、最終日が近づいてくるのが、寂しくて仕方ありませんでした。ここで会ったひとりひとりとの出会いと別れが私にとって一番心に残っています。このたくさんの人との出会いが、私を一回り成長させてくれた気がしています。
▼ある日のスケジュール 6時30分 起床
Q 行なった授業内容を教えてください専任の先生について本を読んだり、会話の練習相手をしたり、日本の文化の紹介など、 文法を教えることより、リスニング、スピーキング中心でした。 Q 授業を一人で任されましたか? Yes専任の先生から「教科書○○ページを教えておいて」など指示があった場合は、その文法を勉強しゲームなどを取り入れて反復練習などをし、指示がない場合は、折り紙や日本の文化の紹介、日本昔話をみんなで英語に訳したり、カルタなどのゲームをしました。 Q 派遣地はどんなところでしたか?海辺にある小さくてきれいな町。のんびりとした雰囲気です。夏はとても暑かったです。 Q このプログラムを選んだポイントは?またこの国を選んだポイントは?大学で日本語教授法を勉強して、学生のときから日本語教師というものに興味がありました。また、このプログラムに参加することで、日本人の少ない場所で、おおらかなオージーと大自然に囲まれた環境で生活できることと、カウンセリングや研修などのバックアップ体制も充実していたこともポイントの1つです。 |
イギリス |
---|
山田美香さん●派遣先と期間:セカンダリースクール(中・高校) 1年間
▼私の体験談 私が滞在したところはロンドンから鉄道で2時間ほど北西部に行ったところにあるのどかなイギリスの田舎町でした。元々イギリスの生活に憧れていて、機会があれば長期間滞在してみたいなと思っており、また大都会ではなく静かな場所でのんびりとしたイギリス生活を送りたいと考えていたので、環境的には絶好の場所でした。 |
ドイツ |
---|
中田明子さん(30歳)●派遣先と期間:ベルリン市内のギムナジウムにて 1ヶ月間
▼私の体験談 私がお世話になった学校は「ゲザムトシューレ」といって、ギムナジウムとレアルシューレ、ハウプトシューレが一緒になった大きな学校でした。日本語の先生はドイツ人女性です。日本語の授業は9年生(15歳)のクラスで、火曜日に45分×2時間、金曜日に45分×1時間の授業がありました。水曜日には日本AG(アルバイトゲマインシャフト)というクラブ活動のような時間があり、日本に関するさまざまな活動をします。また、現在ベルリン市内のさまざまな高校から日本語を勉強している生徒が有志で集まってシアタープロジェクトという活動をしていました。これは、来年の「日本におけるドイツ年」におけるプロジェクトで、彼らが日本で上演する演劇の練習でした。全部で20人近い生徒が水曜の午後に私の学校に集まり、熱心に演技の勉強をしていました。 |
タイ |
---|
村田あつこさん(23歳)●派遣先:バンコク
▼私の体験談 タイ語が話せるわけでもない私にできることは、今の日本をもっともっと好きになってもらうことでした。 |